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八原博通が見たピブン首相の「会心の笑み」(3)~「シラパワタナターム(芸術文化)誌」1986年7月号より

  • 執筆者の写真: akiyamabkk
    akiyamabkk
  • 2022年2月12日
  • 読了時間: 5分

ピブン・ソンクラーム元帥

タイ側の将官二人と共にメナム川河口のバンプーへ向かった八原は、現地に近づくにつれ、街の緊張状態を感じとる。早朝いつもの托鉢する僧の姿がないし、家々は戸を閉め切って、道行く人たちも急ぎ足だ。そのうち、戦車を阻止するためにバリケードを作り、塹壕を掘るタイ兵の姿が見えてきた。どの顔も緊張していて、戦意が感じられた。八原は同行のタイ人将官に、タイ軍はバンコク南部に留まり、日本軍も上陸地点のメナム川河口に留まり、交渉の結果を待つように提案する。


同意したタイ側の将軍のは車を降りてタイ側に命令を伝え、メナム川河口についた八原は上陸部隊の司令官である吉田中佐に停戦案を説得した。幸い吉田中佐は、八原が心配していたような猪突猛進型の軍人ではなく、八原の案にあっさりと賛同した。八原が吉田部隊の上陸地点に到着した時、兵士は銃機関銃を据え付けて戦闘準備をしていたし、前日からバンプ―に派遣されていた20~30名の軍属とタイ警察との間には、小規模ながら戦闘があったようだった。危機一髪でバンコク近郊での戦闘拡大を食い止めることができたのだ。


以下、八原手記から


◇ピブン首相に最後通牒を突きつける


「私がバンプーから大使館に戻ったのは(8日の)午前9時ごろであった。今朝、自らが成し遂げたことを内心誇りに思いながら復命し、事態の推移を説明して任務完了を報告すると、「首相が間もなく戻ってくる」という情報を伝えられた。大使にお会いした時、私は「時すでに遅し」という印象を持っていたが、大使館の幹部たちは、タイの国防省に出向いてピブン首相と面会するとを決していた。」


国防省へ到着した大使一行は、タイ側の敵意に満ちた視線の中、ピブン首相の待つ部屋へ急ぎ足で階段を上る。


「(部屋で待っていた)ピブン首相は、背はそれほど高くなかった。頬を赤くして、軍服を身にまとい、小さな机の前に立っていた。その態度は、一国の宰相にふさわしく優雅で威厳に満ちていた。」


「私の観察するところ、ピブン元帥は、事態を憂慮しているような表情をみじんも見せなかった。苦悩している様子もない。この落ち着きは、彼が前もって立てた計略に自信を持っているからかもしれないと思った」


「部屋には、ピブン元帥の他には、日本側と長年親しく付き合ってきた、側近の二ワット氏がいた。会議冒頭、外交官というよりは侍の沈着さのある痩身の坪上大使が立ち上がって、米英への宣戦布告文書を読み上げた。続いて、対米英戦争の必要性と目的について補足し、タイ政府の協力を要請した。見返りとして、かってタイ領であったマレー4州を返還する旨を案した」


「ピブン首相は、坪上大使の説明を、まったく無表情で黙って聞いていた。通訳が大使の言葉を訳し終わると、田村大佐が立ち上がって流暢な英語で話し始めた。タイ政府側の日本の立場への理解と協力を懇願する内容だった。田村大佐は外交官の息子に生まれアメリカで教育を受けた人である。ピブン首相もフランスで勉強した人なので、英語やフランス語が理解できるに違いなかった」


「ピブン首相から協力を得られるように、威嚇や攻撃ではなく、戦争にいたった経緯を筋道立てて説き、全力で説得を試みる田村大佐の態度に、部屋の中にいるものは誰もが感銘を受けた。普段の田村大佐は酒ばかり飲んで、外泊することもまれではなかった。些末な事にはこだわらない人だったが、この日は、全身全霊を傾け、国家目的を成就するために、持てる力を全て出し尽くし、国家から与えられた任務を全うしたのである」


「この頃から、ピブン首相は明るい表情を見せるようになった。田村大佐の熱情あふれる説明を聞いているうちに、首相の口辺に笑みが浮かんできたのである」


「田村大佐がこの一日だけのために用意してきた弁舌を終えると、三人目の発言者として浅田領事が話し始めた。浅田領事が話し終わった瞬間から、我々は、ピブン首相がどういう態度を決しどう答えるか、かたずを飲んで待った。なぜなら、我々日本側は、内心、首相が戦闘命令を出すのではないかと恐れていたからだ。もし彼が戦争を決断してしまったら!しかし、ピブン首相は口を開こうとしなかった」


「その時、ワニット氏が英語でしゃべり始めた。概要は、日本の侵略行為への非難と、ワタナコーン(プラチンブリ)地区で、日本空軍がタイの空軍機を撃ち落としたことへの抗議である。そして、日本軍のタイに対する仕打ちは、無法者の行為に等しいと非難し、言いたいことを胸から吐き出すと、泣き出してしまった」


「私は、内心こう考えた。日本側のとった一連の軍事行動は、処々の状況と戦略上の必要性から、やむを得ないことだったが、それを、無法者、ならず者的な行為と論断されれば、事実と認めざるを得ない面もあると感じたのである」


「親日派の一人だったワニット氏が、日本側の行為に怒りを表明したことは自然なことであり、親日派の他のタイ人にも共通する感情であると思うし、あるいはピブン首相自身の怒りを代弁したものかもしれないとさえ私は考えていた。」


「この時、怒りのあまり泣き出したワニット氏は、大東亜戦争の末期、自ら命をたった。日本の敗戦が不可避の戦局となったころである。私は、このニュースを、タイから遠く離れた場所で聞いた。だから彼が自殺した理由ははっきりと分からない。しかし、彼は、自殺することで、日本側に与したことに対する責任をとったのではないかと推察する」


「ピブン首相は、これらのやりとりを、威厳をもってじっと聞いていた。困難に直面して尊厳と自信を失わない立派な態度だったが、軟化しつつあるようにも見受けられた。首相はやっと口を開いた。『私は、首相として、東部(アランヤプラテートのこと、訳注)のタイの部隊に対して、日本軍と交戦しないよう、あらゆる手段を用いて命令を伝えている』」


「この言葉を聞いた時、私は喜びのあまり首相に頭を下げ、感謝の言葉を述べた。私が思うに、ピブン首相は、我々が日本側につくようにあれこれ説得する前に、日本に協力する決心を固めていたのではないか。また、私は、ピブン首相がなぜこの二日間(1941年12月7日と8日)バンコクをあけて、行く先も告げずに東部に出かけたのか、疑念を持たずにはおられなかった」


八原はピブン首相の意図を以下のように推察する。




<参考>

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