あるTVカメラマンの(ベトナム)戦後史⑤~「解放後のアンコールワットを初撮影」(後)
- akiyamabkk
- 2021年7月17日
- 読了時間: 9分
更新日:2024年5月11日

◇第二、第三回廊から中央尖塔へ

第二回廊も見るべきものが多大だった。森本右近が残したと言われる落書き、ポルポト時代に首を落とされた仏像、一体一体顔形の違ったデバダー(女神)のレリーフ、幾ら見ていても飽きが来なかった。ここを抜けると中央本殿である。本殿に上がる階段はかなり急な作りである。登る時は良いが下る時は滑り落ちるのでは無いかとヒヤヒヤする。本殿から下を見おろすとここまで来た西側参道とジャングルに覆われたシエムリアップの全景が見渡す事が出来る。
建設当時はここからアンコール遺跡群(バイヨン、王宮、タ・プロム)が見渡せたのでは無いかと思われる。当時の支配者はここから外界を見渡し国の繁栄を願っていたのではないだろうか。しかし何千年の時の経過と共に遺跡はジャングルに覆い尽くされ現在はアンコール群は見渡す事は出来ない。
◇足元はゴキブリの絨毯!
第三回廊中央尖塔下の祠の中に仏像が祀られていた。昔は金箔で覆われ光かがやいていただろう。所々にそのなごりが見える。何かガサガサと音がする。近づいてよく見ると地面全てがゴキブリに覆われゴソゴソとうごめいていた。丁度湿度、温度がゴキブリに最適な環境だったのだろう。これを見てから日本で台所に1匹2匹のゴキブリが現れても何とも思わなくなった。
取材はまだ始まったばかりである。バイヨン、像のテラス、ピメヤナカス、タ・プロム、バンテアイ・スレイ、兎に角数え上げたらきりが無い。それぞれ独特の作りをしている。アンコールワットの記録が終わりアンコールトムに移動する。アンコールトムは南大門が有名である。門の入口に7つの頭を持つガーナの胴体で綱引きをする神々と阿修羅の像が左右に並び、正面に象に支えられた巨大な4面仏の顔が掲げられている。入り口は車1台やっと通り抜けることが出来る幅である。たぶん昔はここを象に乗った行列が行き来していたのであう。綱引きする神々は唇をキリリと締め厳つい顔付きである。
ビデオ取材班が取材してる間、小生はすぐ近くにあるプノンバケン山に登ってみた。たかだか30メートル位の高さである。山の上にも遺跡はあった。小生が登ってゆくとベトナム兵士が慌てて服を着始めた。ベトナム軍の監視所になっていたらしい。4~5名の兵士がブラブラしていた。たぶん日本人テレビクルーが取材に入っていることが伝達されていたのだろう
何も言ってこなかった。山頂からはかろうじてアンコールワットの尖塔が見えだけだった。
◇菩薩の顔が乱立する遺跡バイヨン
南大門をくぐり5分も走ると木々の間から黒い塊が見えてきた。バイヨンである。右に曲がり正面入口(死者の門)着いた。やはり黒いかたまりに見えた。回廊は崩れ落ち参道もガタガタで内部に行けるのかどうかわからなかった。下から見上げると上の方に巨大な顔が乱立していた。観世音菩薩の顔である。回廊はかなりの部分が崩れ落ちていたが、残された壁面には、チャンパ軍との戦闘場面、ジャバルマン7世が大蛇と戦う場面、アプサラが踊る場面など壁、柱に隈なく配置されていた。特徴的なのは庶民の生活が彫られていることである。市場の様子、闘鶏の様子、調理する様子、相撲、曲芸師と多彩である。

頂上に出るには迷路の様な今にも崩壊するのでは無いかと危惧する階段を登らなければならなかった。薄暗い室内から頂上テラスに出ると巨大な顔に囲まれ圧倒される。しかも大きい。テラスから直接顔が立ち上がっていたり、見上げなけらばならない物など様々である、全て4面に施されている。数百年の時を見つめてきた観世音菩薩の顔は、ある者は鼻かけ、ある者は崩れ落ち、ある者は木々に侵食されと、良く今まで持ちこたえたものだと感心する。特に大きな鼻、大きく分厚い唇を見ていると心のどこかが安らぐ気持ちになる。観世音菩薩の顔を見ているとどれもが瞑想している様に見えるが光の当たり方で目を開いているようにも見える。又唇は微笑んでいるものもあるが歯を食いしばっているように見える者もある。小生はスチール担当だったがこの時ほどワイドレンズがあればと思ったことは無い。
アンコールトム群はかなり広大な敷地を有していた。すぐ近くに象のテラス、王宮、ライ王のテラス、と実際の職務を行っていた場所なのではなかろうか?王宮に続いていたと言われる勝利の門は綺麗に石畳が敷かれ、勝利した兵士たちが凱旋したと思われるが、もはや石畳は無く凸凹の荒れ地になっていた。当時あまり知識が無くかなり貴重な遺跡を撮り逃がしたのでは無いかと今にして思いば残念である。
ギラギラ照りつく太陽の下、象のテラスを撮影中1台の牛車がギイギイと音を出しながら通り過ぎて行った。別の取材の時「夜中に牛車のギイギイとゆう音を聞くと怖くてねむれなかった」と村民が話していた事を聞いたことがある。ポルポト時代処刑される人が牛車に乗せられ連れていかれ2度と戻ってこなかったと言う。人気の無い静寂の中でこのギイギイという音を聞いてこの時の事を思い出した。確かにこれが夜だったら不気味な音だったろう。
◇アンコールワット空撮!
ベトナム軍に申し入れていた空撮用ヘリがようやくシエムリアップ空港に来た。アメリカ軍が使用していたガンシップと呼ばれるヘリである。両サイドの窓を取り払い手持ちで撮影出来る様にしてあった。乗り込むのは、カメラマンのI氏、デレクターのN氏、ビデオエンジニアのA氏、石澤先生、そして小生とベトナム語通訳である。片方にビデオカメラマン、デレクター、小生。反対側に石澤先生、VE、通訳、と陣取った。

シエムリアップ空港を飛び立ったヘリは5分も立たない内にアンコールワットに着いた。最初アンコールワット全景を撮影するため大きく飛行してもらった。初めて全部のアンコール見た時、本当に密林の中に埋もれる遺跡だった。広々とした堀に囲まれた中にあるワットは何とも神秘的だった。雲間から見えるアンコールワットも神々しかった。
徐々に高度を下げかなり低空でアンコールワットを撮影出来た。最後に西参道を滑る様に飛行しアンコールワットの本殿の全体を見せる事になった。カメラマンの乗っている窓を少し斜め下にしながら、横滑りに飛行し徐々に高度を上げ本殿に近づき本殿の全体が写せる様にするのである。この難しい飛行は2回行ってもらった。さすがベトナム軍のパイロットである。ほとんど完璧に近い飛行だった。ヘリはホーチミンから飛んで来ているため燃料の問題があった。なごり惜しかったがアンコールトムのバイヨンに向かった。
バイヨンはアンコールワットから見ると小ぶりな遺跡に思えた。上空から見ても黒の塊に見えた。ここも何回か旋回してもらい撮影の目的は達した。無事空撮を終えシュムリアップ空港に降りた時、VEのA氏が気持ち悪そうにしていた。飛行中はほとんど下を向いていたとゆう。又、石澤先生はほとんどアンコールワットもバイヨンも見れなかったと残念がっていた。確かに常にカメラが有る方向に遺跡を見せる用飛んでいたので反対側はでは見えなかっただろう。我々も神秘的な風景に感動してしまい、石澤先生の事を忘れていた。帰りにでも反対側から遺跡が見えるように飛んでもらうべきだったと反省した。
この夜のプレビューは、もはや取材が終わったような雰囲気だった。小さな画面ながらアンコールワットの全体像には皆が魅了された。これでアンコールワットの番組は必ず出来るとの確信を誰もが抱いた。
この後も取材は続いた。タ・プロム、タ・ケウ、東バライ、西バライ、バンテアイ・スレイ、とアンコールワット群の全容を記録すべっくかなり強行軍であった。

バンテアイ・スレイは中心遺跡群からかなり離れていたが取材をする事が出来た。東洋のモナリザと称されるテバダ像が彫られていることで有名だった。実際現場に到着してみると拍子ぬけする。小さいのである。アンコールワットと比べるとミニチュアではないかと思われる小ささである。しかし彫り物は絶品だった。そして完璧に残されていた。モナリザと称されたテバダーも、神々の姿も、ガルーダーの姿も彫りが深くはっきり浮き上がっていた。一つ一つ見ていると不思議な感覚に襲われる。美しいと言いう言葉がぴったしの遺跡だった。
かなり強行軍の取材であったが誰一人病気になる者もなく電波ニュースのスタッフもたいしたものだと感心した。何日取材に有したかは、はっきり覚えていないが皆満足した気持ちで日本に帰って行ったであろう。小生はホーチミンのタンソンニャットで皆に別れを告げた。
◇わからなかった「色ズレ」
取材後日本の編集段階で問題なったのだが「色ズレ」が何箇所かあったということである。当時ビデオカメラは、撮像管を使用していた。赤、黄色、緑、の管がありそれぞれの色を混ぜ合わせて色を作り出していた。その色が一つに重なり合わないと正しい発色が出来ない。その撮像管が移動中振動などで動いてしまうのである。よって撮影の初めの時このズレを正しく合わせなければならばかった。しかし日本電波ニュースにその知識がある人が居なかった。ボタンを押せば絵と音が撮れる。しかも20分もである。テープ交換もボタンを押せば自動的に取り出される。こんな簡単なカメラは無いと喜んでいたのである。取材現場での小さなモニター画面ではとてもこの色ズレを発見することは出来なかった。この事故があった後、日本電波ニュースはビデオエンジニアを外部から雇い必ず付くようになった。
ビデオカメラが撮像管から撮像版になると、カメラ自体が小型化になった。そして今までの半分以下のテープが開発され、ベーターカムと呼ばれるカメラが登場した。これも画期的な出来事だった。今まで必ず2人組で動かなければならなかったのが1人で自由に動く事が出来るようになった。しかも音も一緒に録画出来るのである。しかしこのカメラは重かった。バッテリを入れると10キロを超える重さになった。撮像管から撮像版になってからは色ズレはかなり減ってきた。基盤の集積回路も小型化が進みカメラの耐久性は格段に進んだ。ビデオエンジニアは此後サウンドマン兼用になった。又 カメラとミキサーをつなぐ紐付きになったのである。ここでまた画期的な商品が出てくるのである。
カメラ本体にワイヤレス受信機が組み込まれたのである。これでようやくカマランが自由に動ける事が出来るようになった。ここまで来るのに十数年の時間がかかった。しかし現在録画にテープは使用されていない。サウンドマンが付く仕事は予算のある番組のみである。フリーで仕事しているカメラマンはサウンドマンから照明まで一人でこなさなければならない。カメラ自体は当時の3/1位の大きさになったが、その性能は当時10000万円と言われた
カメラより数段優秀である。ハンディカメラは今でもソニーの独壇場である。
今では、そういう時代があったことを知らない人も多いと思うので、この機会に書き残しておいた。「色ズレ」の問題にみんな頭を抱えたが、当時はお茶の間での受信環境も今のように良くはなく、「ま、大丈夫だろう」ということでOKが出たらしい。
後日談になるが、小生が撮ったアンコールワットの空撮写真は、あのナショナルジオグラフィックの表紙を飾ることになった。一流カメラマンの仲間入りをしたようで、鼻高々だったものである。
<了>